だから、イエスはうまれた。

クリスマスの時期はケニヤで過ごしました。ナイロビのスラム街、キベラやキコンバマーケットへ行って貧しい人々と会ったり、ティカのストリートチルドレンたちと関わったりする機会を得た中で、この世が抱える問題や苦しみとイエスキリストにある希望のクリスマスメッセージを主から受け取りました。

ケニヤのティカという地域。

日中でもドラッグをしながら路上やごみ山で寝転んでいる10歳前後の幼い子供たち。目は焦点が合っておらず希望の光は見えていない、社会に諦めのようなものを感じ、周りに興味を示していない。それはエチオピアの状況とも何かが違うように見えました。ケニヤはアフリカの中では経済先進国です。きれいな街並みや大豪邸が立ち並んでいるかと思えば、手が付けられないほどに汚れた貧しい場所もあり、その対比はまるで別の国に来たと思えるほどです。貧富格差により一般犯罪も多発しています。

現地のNGOケニア人スタッフがストリートチルドレンに昼食をごちそうしていました。

この時期をこのスラム街やマーケットへ行って過ごしたことは、私のアフリカ滞在の経験の中でもとても強く印象に残っています。「苦しみを受ける彼らのために、イエス様は生まれた、このような平和がない世界だからこそ、イエス様は生まれた」ということが、「知っている」から「分かった」に変わった経験だったからです。

この現状を目の当たりにしたことが、数日かけてゆっくりと染み渡るようにして心の深くに届き、一気に突き刺さってきて、どうしようもなく苦しくなりました。「神様、どうかこの世界を救って下さい。彼らを助けて」と祈ると共に涙が止まらなくなりました。

「私たちの世界は暗く、罪と汚れと悲しみで溢れている、人間が犯した罪の結果が、この場所に凝縮されている」と、そんなふうに思い「私たちの罪をお許しください。苦しむ人を助けて下さい。」そう祈らずにはいられませんでした。そしてふと、人はその歴史の中でこのことをずっと祈り続けてきたのだと思いました。現代でも、世界中で、もちろん日本にも問題があって苦しむ人がいるのです。

 

そんな思いを巡らしている私に、神様は「だからイエスは生まれたんだ。その祈りの答えがイエスだよ。」と、語られた気がしました。それは、とてつもない神様からのクリスマスメッセージでした。イエス様はだから生まれて下さったのだと、たくさんの祈りの答えが、そこにあったのだということに、気付きました。

【ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその方にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:1-7)】

【キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないと考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(マタイ1:18-25)】

「誰のために生きるのか、誰に仕えるのか。」とずっと祈り考え続けていました。

そしてこの地に来る前から祈ってきたこと「家庭の回復」、私の原点でもあるこの願いを思い起こされました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください